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相当ダム

堤高34m
G/AW 1944年 佐世保市営

2010.10.9見学

不思議な石積ダム、転石ダムから北東におよそ3km、田畑の脇道を入ったひっそりとした林の中に相当ダムはあります。

水道水の水源池とあって、敷地内は立入禁止。
現在は佐世保市が管理していますが、日本海軍によって佐世保の軍港水道の為に建設されたダムの一つです。



それほど広い貯水池ではありませんが、周囲を林に囲まれていて、ほとんどその姿を観る事ができません。

非越流型のコンクリートダムは堤高34m、高欄は転石ダムと良く似ています。
現地では下の写真のアングルでしかダムを見る事が出来ず、自宅で衛星写真を確認すると、取水設備は半円形でダム本体にあり、対岸の右岸の斜面に越流式の洪水吐がある事が解りました。

このダムが建設された1940年代であれば、本体から独立した取水設備や、クレストの洪水吐ゲートなど、ごくスタンダードな仕様になっていたので、随分と古風な設計です。
まるで20世紀初頭の石積ダムを、そのまま表面だけコンクリート化したかのようです。

佐世保の軍港水道の基本計画や設計は、長崎市の近代水道を手がけた吉村長策という博士だそうで、そう思うと尚更、この相当ダムが長崎市の本河内低部ダムや西山ダムとよく似ているように見えてきます。

実際に建設現場で主任技師を務めたのは博士ではないものの、戦中の突貫工事で建設されたこのダムは、物資不足から重機を使わず全て手作業による建設だったので、40年も前の石積ダムの設計や工法に逆戻りしたのではと思えてきます。



このダムを説明する上で避けて通れないのは、1941年着工〜1944年竣工という大戦真っ只中に建設され、国内の労働力不足から外国人によって建設されたという史実です。

ダムサイトには建設の為の収容所が建てられ、太平洋のウェーク島から強制連行されて来たのは、島で米軍の基地建設にアメリカ本土から来ていた民間人でした。
ウェーク島ではトラクターやクレーンを使い、近代的な工事を行っていた彼らでしたが、何もかも不足する相当ダムの建設現場では、ツルハシやスコップなど手作業の労働を強いられました。

結果、多くの犠牲者を出す事となりましたが、その要因は建設中の事故ではなく、飢えと寒さ、繰り返される過酷な労働、不衛生な環境が原因とする病死や、日本兵による虐待であったとされています。

また、戦後の戦犯裁判では、収容所の関係者が絞首刑、終身刑を受けています。



その後、佐世保市によって犠牲となった外国人捕虜の名を刻んだ慰霊碑が建立されました。米軍佐世保基地主催で毎年、慰霊祭が行われているそうです。
また、今世紀に入ってから慰霊碑の名前に誤りがある事が判明し、昨年、新たな名簿を刻んだプレートが設置されました。

橋や道路と比べて、耐用年数がはるかに長いコンクリートダムは、歴史の生き証人として、さまざまな出来事を後世に伝えてゆく、そんな使命を持っているのかもしれません。


相当ダム
★★

| あつだむ宣言!(清水篤) | ダム長崎県 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
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