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菰田ダム

堤高40m
G/AW 1939年 佐世保市営

2010.10.9見学

最後の幸せなダム。


菰田ダムは市営の水道ダムですが、佐世保の他の古いダムと異なるのは海軍の建設ではなく、最初から市営水道の為に造られたダムと言う事です。

それまで佐世保の一般家庭では、海軍の軍港水道から給水を受けていましたが、この菰田ダムの完成により、水源地から家庭の蛇口まで一貫して市の水道となりました。

県道を登って、右岸に到着。
大切な水道水源地であり、天端や敷地内には立入は出来ません。



ダム便覧などの写真では、福井の鷲ダムによく似たGA風の堤体をイメージしていたのですが、実際の菰田ダムの形は、二つの直線を曲線で結んだ「くの字」形をしているようです。

堤頂部の幅もそこそこあり、ダム管理の車両が通った痕跡が見えます。
直線部分の高欄は石積の重厚な仕様のようです。



貯水池側から見たクレスト部。
ダムの中心にある余水吐の辺りで堤体がカーブして、再びストレートな堤体に繋がって行きます。
ダム湖側への出っ張りは取水設備だと思います。



天端は立入出来ませんが、右岸の県道から脇道を下ると、ダムの脇腹辺りに到着します。

この菰田ダム、堤頂長は387.7mもあります。
余水吐を中心にほぼ左右対称なので、対岸の木々に隠れた先にも、長く堤体が伸びているはずです。

堤高も40mほどあり、発電用のダム以外では、当時としては高い部類に入ります。
(当時、他で40mを超えていたのは、千刈(W)、小ヶ倉(W)、河内(I)、上田池(A) など)
 


直接触れる距離の菰田ダム。

表面にはコテ仕上げのような横筋が沢山入っています。
コンクリートの継目でもなく、はてさて、これは何でしょうか?。

プロバンス風仕上げ(???)



そのヒントになりそうなものが、右岸のアバットにありました。
元々石垣だった上にモルタルが塗布(吹きつけ?)されていて、所々に下地の石材が覗いています。(石垣風に、模様が刻んでいるのがキッチュですね)

まさか、ダム本体の中身まで石積だとは思えませんので、表面だけモルタルで整えてあるのではないかと思います。
これが竣工当初からなのか、その後の止水処理などの工事なのか、見た限りでは解りませんでした。

ちなみに、石積ダムの表面を改修工事でモルタルで覆う事例は、僕の地元の岐阜県だと、細尾谷ダムや、高橋谷ダムなどか多分そうではないかとにらんでいます。
(※あくまでも僕の推測です)



威風堂々という言葉が浮かぶ余水吐。

高欄の親柱も装飾的で、気配りと拘りが感じられます。
薄い導流壁も立体的な曲面で美しい造形です。



菰田ダムの取水設備は、石積ダムのようなダム本体に付属するタイプなので堤体の真下に取水設備への出入り口があります。
石積ダムなら見慣れた感じですが、ちょっと意外で面白い感じを受けます。

余水吐直下の減勢池は、三味線のバチのような美しい平面形状のはずなのですが、それを確認できる眺望ポイントはありませんでした。(天端からならよく見えるはず・・・)



この菰田ダムは各所で凝った造りになっていて、減勢池から下流は、トンネル式の地下水路で100mほど下流まで水が送られています。

残念ながら広い敷地内は立入禁止で詳しく様子を伺う事は出来ませんが、下流に架かる橋から見ると、茂みの奥に地下水路の出口のような構造物が見えました。



菰田ダムの竣工は1939年。

その後、日本は不幸な時代を迎える事となりますが、建設されるコンクリートダムも無愛想で、味気ないデザインが中心になって行きます。

美しい余水吐からサラサラと水が流れ、日差しが当たり輝いて見えました。

「みんなの役に立つ、立派なダムだぞ、どうだすごいだろう」
戦前に建設された古い水道用ダムたちは、みな大らかな笑みを浮かべ、口を揃えそんな事を言ってるように見えました。
それはダムが語っているのか、建設に携わった方々の声なのか。
きっと両方の声だった気がします。

菰田ダムは、幸せな時代に造られた最後のダムなのかもしれません。



今回、駆け足で長崎市と佐世保市の水道ダムを巡ってみましたが、歴史ある港町には、まだまた魅力と不思議に満ちたダムが沢山あります。

今回は行き洩らしてしまいましたが、その中でも1900年完成(!)の「岡本貯水池第二号貯水池」は、湧水を貯留する正円形状のダム(コンクリート遮水の水槽のようなものか?)だそうで、次回、佐世保に行った時は必ず見てみたいと思っています。

菰田ダム
★★★★

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山の田ダム

堤高24.5m
E/W 1908年 佐世保市営

2010.10.9見学


山の田ダムは佐世保港の北5キロにあり、日本海軍が建設した水道用ダムのひとつです。
完成は古く1908年(明治41年)、現存する当時のアースダムの中では最も高いダムだそうです。

ダム本体の下には、広い敷地の浄水場が広がっています。
まずは左岸下流からダム本体に向かいます、団地の裏を進むと公園になっていました。



公園の中を歩くと、山の田ダムが姿を現しました。
堤高24.5mと立派ですが、それよりも堤頂長が310mもあります、現代のアースダムとしても、充分立派な大きさです。

今は堤体の草も枯れていますが、暖かい季節には、きっと緑が映える美しいアースダムだと思います。



左岸には洪水吐があり、水音といっしょに美しい放流が見られます。
山の田ダムは、オールドダムらしくカスケード式の導流路です。



幾段もの階段状に石積の壁が造られ、一段一段綺麗に水が落ちて行きます。

部分的に岩盤が覗いていて、各段の間隔もばらつきがあり、自然の地形と人工物の不思議なリズムを刻んでいます。

これって以前、何処かで見たものに良く似ている・・・。



思い出したのは、松本市にある牛伏川フランス式階段工でした。
明治から大正にかけて建設された、「日本で最も美しい砂防堰堤」の異名を持つ砂防です。

そうなんです!
急斜面を減勢しながら水を落とすというのは、ダムの洪水吐も、砂防堰堤も同じメカニズムなんですね。

ちょっと考えれば当たり前の事なのですが、ダムを見学していて、こんな発見があると、すごくいい宝物を拾ったような喜びがあります。



コンクリートで滑らかに整えられた現代のシュート洪水吐と違うのは、水は導流路を流れ落ちながら減勢されるので、下に減勢池が無い事でしょうか。



導流路の脇からは貯水池左岸にかけて、山の田自然歩道が伸びています。

息を切らせながら坂道を昇るとダムの堤頂部が見えました。
貯水池もお水たっぷり。



洪水吐の越流部も石積の階段状です。
これまた美しいものなのですが、いかんせん木立が邪魔してよく見えない・・・。

天端が綺麗に整備してあるので、淡い期待を胸に対岸に向かう事にしました。



車でぐるっと迂回してダムの右岸に来ました。

ダムサイトには立派なパーキングもあるのですが、やっぱり立入禁止。
残念だけど仕方ないです。

山の田ダムは、2000年に止水グラウド工事などの堤体改修が行われています。
綺麗なパーキングや、天端の欄干はその時に整備されたのだと思われます。



貯水池の真ん中に取水塔の頭が覗いています。
天端からの離れ具合で、ダムのスケールが解りますね。



明治に造られた大規模アース。
どこか最敬礼をしているような凛々しさ漂う堤体は、海軍の生まれだからでしょうか。

100年も前に造られた山の田ダムは、小高い山裾から、町の変化と時代の移り変わりを眺めながら、これからも佐世保の町を見守り続けていく事と思います。



山の田ダム
★★★

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相当ダム

堤高34m
G/AW 1944年 佐世保市営

2010.10.9見学

不思議な石積ダム、転石ダムから北東におよそ3km、田畑の脇道を入ったひっそりとした林の中に相当ダムはあります。

水道水の水源池とあって、敷地内は立入禁止。
現在は佐世保市が管理していますが、日本海軍によって佐世保の軍港水道の為に建設されたダムの一つです。



それほど広い貯水池ではありませんが、周囲を林に囲まれていて、ほとんどその姿を観る事ができません。

非越流型のコンクリートダムは堤高34m、高欄は転石ダムと良く似ています。
現地では下の写真のアングルでしかダムを見る事が出来ず、自宅で衛星写真を確認すると、取水設備は半円形でダム本体にあり、対岸の右岸の斜面に越流式の洪水吐がある事が解りました。

このダムが建設された1940年代であれば、本体から独立した取水設備や、クレストの洪水吐ゲートなど、ごくスタンダードな仕様になっていたので、随分と古風な設計です。
まるで20世紀初頭の石積ダムを、そのまま表面だけコンクリート化したかのようです。

佐世保の軍港水道の基本計画や設計は、長崎市の近代水道を手がけた吉村長策という博士だそうで、そう思うと尚更、この相当ダムが長崎市の本河内低部ダムや西山ダムとよく似ているように見えてきます。

実際に建設現場で主任技師を務めたのは博士ではないものの、戦中の突貫工事で建設されたこのダムは、物資不足から重機を使わず全て手作業による建設だったので、40年も前の石積ダムの設計や工法に逆戻りしたのではと思えてきます。



このダムを説明する上で避けて通れないのは、1941年着工〜1944年竣工という大戦真っ只中に建設され、国内の労働力不足から外国人によって建設されたという史実です。

ダムサイトには建設の為の収容所が建てられ、太平洋のウェーク島から強制連行されて来たのは、島で米軍の基地建設にアメリカ本土から来ていた民間人でした。
ウェーク島ではトラクターやクレーンを使い、近代的な工事を行っていた彼らでしたが、何もかも不足する相当ダムの建設現場では、ツルハシやスコップなど手作業の労働を強いられました。

結果、多くの犠牲者を出す事となりましたが、その要因は建設中の事故ではなく、飢えと寒さ、繰り返される過酷な労働、不衛生な環境が原因とする病死や、日本兵による虐待であったとされています。

また、戦後の戦犯裁判では、収容所の関係者が絞首刑、終身刑を受けています。



その後、佐世保市によって犠牲となった外国人捕虜の名を刻んだ慰霊碑が建立されました。米軍佐世保基地主催で毎年、慰霊祭が行われているそうです。
また、今世紀に入ってから慰霊碑の名前に誤りがある事が判明し、昨年、新たな名簿を刻んだプレートが設置されました。

橋や道路と比べて、耐用年数がはるかに長いコンクリートダムは、歴史の生き証人として、さまざまな出来事を後世に伝えてゆく、そんな使命を持っているのかもしれません。


相当ダム
★★

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転石ダム

堤高22.7m
G/AW 1926年 佐世保市営

2010.10.9見学

Like a Rolling Stone.


長崎県佐世保市 転石ダム(転石堰堤)は少し謎めいた魅力的な石積ダムでした。
川谷ダムを後に山道を下ると柚木町という町に出ます、その町の南側の山裾に転石ダムはあります。

集落の坂道を登ると、木々の間から石積の壁が見えました。
転石ダムです。



堤高22.7m、堤頂長164m。
数値の上では小柄なダムですが、堂々とした姿がそう思わせるのか、第一印象ではもっと大きな堤体に見えました。

特徴的なのは、バケットカーブからクレストにかけて垂直に高く伸び上がった壁面です。
この様な下流面を持ったダムは、他では見た事がありません。
逆にバケットカーブから下の勾配は、急斜面が多い石積ダムとしては異例の緩やかさに感じます。

この独特のダム勾配が謎めいた転石ダムをより魅力的にしている事は明らかです。



壁面の色は、高欄の親柱の部分だけ白さを残していて、そこだけ浮き上がって見えます。
写真では柱状の装飾がある様にも見えるのですが、実際には雨だれによる黒ずみの模様であった事が解りました。

きっちりと布積みで積まれた石材は、よくある長方形の間知石の形状ではなく、完全な正方形です。
また、石材の表面には凹凸がなく、まるでタイルのように平坦に見えます。
それに異様とも思えるマットな質感は、花崗岩などの通常の石材では無さそうです。

もしかしたら積まれているのは石材ではなく、コンクリート製のブロックなのかもしれません



250mmの望遠端で観察すると、赤錆色のハンドルが見えました。
堤体の正面に取水設備がある様です。

この転石ダムは、現在は佐世保市営の水道用ダムとなってます。
竣工は1926年、日本海軍によって建設されました。
日本海軍により鎮守府が置かれた佐世保は、海軍工廠を含む軍港としての整備が進められました。
転石ダムは、その軍港水道として造られたダムの一つです。

佐世保海軍工廠は、大和型の巨大戦艦が入れる大型のドックを有していて、実際には武蔵が一度ドック入りしただけだと言われていますが、戦後に民間に払い下げられた後は巨大タンカーの造船などに活用され、世界に誇った戦後日本の造船業に貢献する事になります



右岸の道を進むと道路脇にフェンスがありました。
多分、これが天端へ繋がる入口だと思われますが、堅く閉ざされていました。



ダムの右岸からは他にダムが見える場所が無く、一旦下流に戻って左岸へ向かう事にします。

下流の山道のカーブから転石ダムを見ると、堤体の下流左岸に何かがある事に気が付きました。



カスケード形洪水吐!!

ダム本体に洪水吐を持たない石積ダムでは、堤体の脇にフィルダムのような洪水吐を持つものが多く、この転石ダムも例に漏れず左岸に洪水吐を隠し持っていました。しかも、もっと古い世代のダムに多いカスケード形だったとは!。
これは是非、もっと近くで見なくては!。



左岸からの転石ダム。

ダム本体の左岸には、自由越流式の越流部があるはずなので、それを目指して左岸に来たものの、眺望に恵まれず、天端を部分的に見るのが精一杯でした。
望遠で前ボケの写真はミニチュアのようなちょっと面白い写真になりました。

下流面から這い上がった植物は、天端にも進出しているようです。
重厚なコンクリート造りの高欄が凛々しいですね。

堤頂部の幅は目測で2.5m程でしょうか?。
この堤高の石積堰堤としては少し幅広い天端に見えました。



ダムの下流にはダム施設への正門がありましたが、残念ながら当然立入禁止。

すぐ脇には普通の住宅があり、家の前庭を通らせて頂き、その奥も散策してみたのですが、ダム施設に至る事は出来ませんでした。



施錠された正門からの堤体。
すぐ近くにダムが見えている分、余計もどかしいですね。

道の先にコンクリートの欄干が見えます。
洪水吐の下流に架かる橋ではないかと思います。



門の前でうろうろしていると、門の左下に歩道がある事に気が付きました。
この道には規制線は無く、開放されているので入ってみる事にしました。



道はダム施設の境界線に沿って付けられていて、金網のフェンス越しですが、木々の間から時おり堤体を覗き見る事ができました。



先ほど正門から欄干だけ見えていた橋が見えます。

コンクリートの橋の下には、鉄骨のトラス構造が見えます。
これって何と言う橋の形式になるのだろう?。

コンクリートとアイアンのミックスした欄干がいいですね。



不思議な橋の上流に、例の洪水吐が見えました。
耳を澄ませば水音が聞こえる距離なのですが、残念ながら目視できるのはこれが精一杯。



フェンスに沿って道を進むと、ダムの右岸付近で行き止まりとなりました。

転石ダムの右岸端。なだらかな斜面から、ゆるやかに堤体が始まるのが印象的です。
この辺りの堤体はバケットカーブの上の高さなので、下流面勾配の無い垂直の壁部分のみとなっています。

ここである事が思いつきました。
この、ダムサイトとは思えないながらかな右岸の地形こそが、クレストの垂直面が高い独特のダム勾配に関係しているのではないでしょうか?。
通常のバケットカーブの位置だと、この辺りから既に下流面勾配が始まっていると思うのですが、この地形では、余分に分厚くコンクリートの使用量が多い堤体になってしまうと思えるのです。



次の訪問先、相当ダムからの帰り道、国号498から偶然、転石ダムの全容を観る事が出来ました。距離およそ1200m、町の反対側にまさに城壁のような堤体。
右岸のなだらかな地形もよく解ります。

転石川という河川名からは、石も転げるような急峻な地形イメージするのですが、実際の転石ダムは山裾に築かれた低く長いダムでした。



ライク・ア・ローリングストーンは、ボブディランの曲ですが、この曲の「Rolling Stone」は、「転石」ではなく、風来坊の意味なのだとか。
でも、雨だれに黒ずんだ堤体に、不精ヒゲのようにつる植物を蓄えた転石ダムの風貌は、風来坊という言葉もよく似合っていると思いました。

I Like a Rolling Stone. 転石ダム。
★★★★

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川谷ダム

堤高46m
G/AW 1954年 佐世保市営

2010.10.9見学

長崎市を後に長崎自動車道から西九州自動車道を通り、佐世保にやって来ました。
長崎市にはまだまだ沢山のダムがありますが、九州はめったに来れないので、今回はちょっと欲張りなダム巡りの計画を立てていました。

佐世保三川内インターで降りて、県道を10キロ程度走ると川谷ダムの貯水池が現れます。湖畔のトンネルを抜け、振り返ると川谷ダムが背後にありました。



おおらかなバケットカーブ。
クレストには華奢なアームのラジアルゲート、ピア上のコンパクトな巻揚機。

天端から階段で一段上のピア上に昇るスタイルは個人的に好きなタイプです。



上の写真の撮影ポイント。
右手のダムまでの道はゲートがあり立入禁止。
トンネルの向うは貯水池ですが、地形の都合で向うから堤体の上流面を見る事は出来ません。



少し場所移動をして、真正面から拝見できる場所に来ました。
ゲートの下から流れ出るみたいに苔が生えています。

四角い柱状のピアなど、この年代らしい実直で真面目な造りですが、高欄に面白い感じを受けました。



コンクリートに丸いアーチ状のくり貫き、その中にアイアンの飾りが見えます。
水平な部分は良いのですが、階段部分がなかり強引な感じです。

高欄部分は他の場所で整形さえれて、据付したようにも見えます。
プレキャスト監査廊ならぬ、プレキャスト高欄って感じでしょうか??



ちょっと電線が邪魔ですね。

それでも、堤体を眺めるポイントが少ない物件なので、バランスのとれた美しい姿を鑑賞できるのは幸運じゃないかと思いました。



川谷ダム
★★★

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西山ダム

旧堤体 堤高31.82m
           G/W 1904年 長崎市営
新堤体 堤高40m
           G/FW 1999年 長崎県営

2010.10.9見学

長崎市街中心部からおよそ2km
西山通りを北に進むと真正面にコンクリートダムが見えてきました。
西山ダムです。



ダム下の交差点を右折し、坂道を登るとアンティーク風の管理所があります。

外壁は新しく見えるので、改築やリフォームされているようですが、シャビーシックなアイアンの門は明治からのオリジナルかもしれません。



管理所から少し坂道を戻ると、上下に二つの堤体が見えました。

長崎市の緊急ダム事業として、1904年竣工の西山ダムも、水道水源専用の利水ダムから洪水調節が出来る多目的ダムへの転換が必要となり、既存の西山ダムにほとんど手を加えず、およそ60m下流に新しくコンクリートダムを建設する事となりました。

この様に上下に二重構造となっているダムは、全国的にも大変珍しいのではないでしょうか?。



まずは、1999年に竣工した新堤体を拝見します。

クレストゲートは最近のダムらしく自由越流式。
高い位置の四角いオリフイスゲートはデフレクターが無く、つるんとしています。
なんとなく80年代のターボ車のインテーク風(?)



表面は石積風のデザインが施されており、すぐ背後の大先輩への配慮が伺えます。

フーチング上の柵も天然石の石柱が使われ、新鋭のダムでありながら暖かみのあるディテールをしています。



天端はもっと凝っています。

歩道となっている天端は石畳が敷かれ、クラシックなアイアン風の高欄とランプ。
龍をモチーフとした装飾も見られます。



新堤体から見る、旧西山ダム。
本河内低部ダムに続き、コンクリートダムとして日本で3番目に古いダムです。



どっぷりと湖水に浸かる石積堤体は、ダムと言うより、城のお堀の様に見えます。

クレスト部分を観察すると、本河内底部ダムと共通のデザインと言う事がわかりました。
3キロも離れていない本河内低部とは、同時期に建設が進められていた事もあり、実質的に兄弟ダムとも言えそうです。




新堤体から下流を見ます。

デザイン的な遊びの少ない減勢工、周辺は公園化されています。
ダムの下流は明治時代のオリジナルの部分と、最近の工事の部分が混在している様に伺えます。



新堤体を渡り、右岸から旧堤体に向かいます。

やっぱり不思議な感じを受ける西山ダムの風景。

新旧二つのダムの天端レベルは同じ様です。
それでいて、旧堤体31.82m、新堤体40mと堤高が異なるのは、新堤体は河川の下流にある事と、基礎地盤の掘削の深さに違いがあるのだと思います。



新堤体は、上流側も石積風の型押しが施されていました。
石積風で現代的な放流設備と言うのもなんだかユニークです。



石積のバケットケーブの美しい旧堤体。

クレスト部分の水平に延びる帯状の装飾は、石積ダムでもごく初期のダムに見られる特徴のひとつです。
同じデザインの本河内低部ダムのほか、神戸の布引五本松ダムや立ヶ畑ダムにも見られます。

その後、究極的に装飾を施した呉市の本庄貯水池堰堤などが、このデザインの延長線にあると言えますが、クレストに洪水吐を配置するのが一般的になると、ダムデザインの華の部分はクレストゲートのピア等に取って替えられる事となります。

いずれにしても、日本のダム史上で初めて造られた堤体たちが、既にこの様な洗練されたデザインを採用していたのは驚きに値すると思います。
表面の色味こそ長い歴史を感じますが、形自体に全く古さを感じません、現代にも充分通用するデザインです。
推測ですが、欧米など海外のダムなどを参考にしていたのかもしれません。

また、新堤体のクレストゲートの越流部の高さから想像すると、旧堤体ではバケットカーブ上の装飾の辺りがサーチャージになりそうです。
ひょっとして、そういった水位等を示す機能的な役割があったのかもしれません。

(これらの事は、ダム愛好家の空想遊びにすぎませんが、再開発が行われても、オリジナルの状態が保たれているからこそ感じる事が出来た訳で、歴史的景観を残すという価値はとても大きいと思いました)



左岸にあった(と、思われる)洪水吐が掘削され、貯水池はフリーで新堤体に繋がっていて、水位も同じとなっています。

天端の左岸はこんな感じで自然な造りになっていました。
ここら辺は多分、竣工当時のままだと思われます。



青々と苔むした高欄。

でも、苔の中のコンクリート面や、石畳の路面はとても滑らかで、非常に丁寧な造りをしています。
同じ古いコンクリートダムでも、戦中〜戦後直後の荒々しい表情とは対照的に、穏やかで品のある天端です。



左岸の管理所の下から見る旧西山ダムの天端。
100年の間に木々成長したのか、森の中のダムといった雰囲気。



今回、下流側から新堤体を渡って時計回りに一周しましたが、もちろんその逆方向にも散策して周る事も出来ます。

管理所の近くには休憩用のベンチやダム案内看板、旧堤体のコンクリート見本なども見る事が出来ます。



ほんの3キロ四方の中に、100年を越す貴重なオールドダムがひしめく長崎市。

正面に新堤体を追加し、トンネル式の洪水吐を建設中の本河内低部ダム。
アースダムの直上に、コンクリートダムを建設した本河内高部ダム。
そして、既存のダムの直下に新堤体を建設した西山ダム。

時代の要求で本来の水道用利水ダムから、防災機能を持った多目的ダムに生まれ変わる事になりましたが、いずれのダムも既存のダムを極力残す方法が採用されているのは素晴しい事だと思います。

あと10年、20年すると、日本全国で次々と沢山のダムが100歳の誕生日を迎えます。
長崎市のこれらのダムは、ダム再開発の優れたモデルケースとなっていくのではと思います。



西山ダム
★★★★

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本河内高部ダム

旧堤体  堤高18.8m
              E/W 1891年 長崎市営

新堤体  堤高28.2m
              G/FNW  長崎県営

2010.10.9見学

日本で2番目に古いコンクリートダム本河内低部ダムのすぐ上流にあるのが、こちらは日本で最も古い水道用ダムと言われる本河内高部ダムです。

鎖国時代から唯一海外との繋がりがあった長崎は、明治なってからも海外貿易が一早く盛んになった港町でしたが、同時に海外から伝染病が持ち込まれる事も多く、当時の長崎はコレラが猛威を揮っていました。
このような背景から、長崎は全国に先駆けて、横浜、函館に続き近代的な水道が造られる事になります。
この時に建設されたのが、本河内高部ダムです。

1982年の長崎水害を受け、緊急ダム事業の一環として、既存のアースダムの直ぐ上流に重力式コンクリートの新堤体を建設する工事が進められています。
この緊急ダム事業とは、新たに2基のダム建設に加え、既存の5基のダムに改造を施し総合的に治水能力を高めるものです。

写真の青々とした堤体がアースダムの旧堤体、そのわずが数十メートル上流に見える真新しいコンクリートの壁が新堤体となっています。



新堤体の右岸端から。

ダム本体の工事は既に完了していて、既に上水道への送水も再開されています。
直下の本河内低部が現在水を抜いて工事中なのでバトンタッチした感じですね。
(両方の貯水池を同時に空にする訳には行かないので)

現在、天端は徒歩でなら通行が出来ます。



新堤体はシンプルな形状ですが、取水設備の位置や外観の形状が面白いと思いました。
今世紀に建設された新鋭のコンクリートダムなのですが、とてもクラシックな外観の取水設備が付いています。

旧堤体の取水設備は、アースダムの裾野辺りから貯水池の真ん中に突き出した取水塔だったので、ひょっとしたら取水設備の位置自体は変わっていないのかもしれません。
(既存の取水塔の位置に合わせて、新堤体の位置が決まった?)

背後の住宅地にも注目、こんな住宅密集地にあるダムも珍しいです。



左岸から見る新堤体。

こうして見ると基礎地盤まで垂直の壁に思えますが、地中には通常の形状の堤体が埋まっています。
旧堤体と新堤体の間を埋める土は、下の本河内低部ダム工事の残土が使われているそうです。

下流面が盛り立ててあるコンクリートダムは小豆島の内海ダムなどがあるそうですが、まだ観ていない事もあり個人的には山梨の頭佐沢ダムに似ているなと思いました。
(頭佐沢ダムは謎だらけの堤体です、何方か詳しく調査してくださいっ!)



丁寧に保存がされている旧堤体の一部。
これは底樋の一部切り取ったもの、明治24年完成の古いダムには、赤レンガが使われています。



同じく、保存されていた何か・・・。
現地では皆目検討も付かなかったのですが、旧取水塔の頂上部なのだそうです。



旧堤体の名残としては、石積の洪水吐の一部がそのまま残されています。



現在の旧堤体と新堤体の間は、まだ工事事務所も建っていて、いささか殺風景な感じなのですが、旧堤体の遺産を上手く使った親水公園として計画されています。
非常に美しい公園になるようですので、完成がとても楽しみです。



新堤体を一通り散策した後、旧堤体を観てみます。
ダムの下は水道関連の施設になっていて、関係者以外は立入出来ません。



明治に造られた水道用アースダム。

シンメトリーのデザインには、建築物としての気品を感じます。
細部もとても丁寧な造りです。



これは古い浄水場の跡地でしょうか?
周囲は赤レンガで囲まれていて、旧堤体の底樋との関連性が見受けられます。



旧堤体の高さ18.8mから、28.8mの新堤体へ少し背の高くなった本河内高部ダム。本河内低部をはじめ、周辺のダム達が洪水調節容量を作る事によって目減りする利水容量をカバーする事になっています。

本河内高部ダム
★★★★

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本河内低部ダム

堤高28.3m
G/W 1904年 長崎市営

2010.10.9見学

街の風景となったダム。


長崎は坂の街。
坂が多い為、自転車に乗る人が少なく、一説には多くの長崎市民は自転車に乗れないらしい。たしかに、自転車はほとんど見ないが、その代わりにやたらと単車ばかり見かける。
それに、路面電車は走るは、バスは多いわ、路上駐車は多いわで、長崎市街はとても走りにくい。
極めつけは練り歩く龍の神輿、実はたまたま長崎くんちと言う祭の最終日に当たっていたのだ。

市街をノロノロ、ウロウロしながら、ようやく目的の本河内低部ダムに到着。
本河内低部ダムは、神戸の布引五本松に次いで日本で2番目に古いコンクリートダム。
現在、1982年の長崎水害を受け、緊急ダム事業の一環として大規模な改造工事の最中である。



込み入った住宅地の奥に、黒ずんだ重厚な石積ダム。

まずは、密集した住宅地や団地に囲まれているロケーションの特殊さに驚く。
もちろん、ダムは周囲のどの建物よりも先に築かれたと思うが、ダムにより衛生的な水道が完備された事で街が発展したとも言えるかもしれない。

立入禁止の門の横は団地の小さな公園があり、なんとか全容を写真に収めようと、遊具の上に立ってみるが、さほど風景は代わり映えしなかった。



工事の看板から。
水道専用のダムとして築堤された本河内低部ダム。
ほんの500〜600m上流には先駆けて築堤された本河内高部ダムがある。

現在行なわれている工事は、水道専用であったダムに、洪水調節機能を加えるものである。
100年以上経過した貴重な土木遺産の改造は、既存の下流面に手を加える事なく行われている。



ダム本体の上流面に新たに堤体を加える工事の他に、既存の越流式の洪水吐に代わって、トンネル式の洪水吐が建設されている。
リニューアルされる本河内低部ダムは、目的に洪水調節と河川維持が追加され、FNWとなる予定である。
洪水調節容量の確保の為、常時満水位はぐっと下げられる事になるようだ。



重厚なクレスト部。
切石の凹凸を使った装飾が見られる。

先ほどの標準断面図によると、下流側の表面は「コンクリートブロック張り」とされている。
マルチプルアーチの豊稔池堰堤も実は下流面はコンクリートブロックであるらしく、当時としては案外一般的な仕様なのかもしれない。
いずれにしても、工事中の為、近寄って確認する事が不可能なのがもどかしい。

天端にヘルメット姿の作業者が見える。
ダムの左岸を長崎街道(国道34)が通過しており、車窓から正面側の工事風景も見られたが、交通量が多く、駐車場所も無かった為写真の撮影は出来なかった。

このダムを訪れるには、一番困難な時期に来てしまったようだ。



100年以上の歴史ある堤体、改修工事により、さらに次の世代へバトンが渡される。

風土工学によれば、人の手による土木建築物も100年を経過する事で、景観から風景となるのだと言う。

ダムの顔である下流面に一切手を加える事なく行われている改良工事は、まさにこのダムが長崎の風景の一つとして根づいた事を示すものだろう。

本河内低部ダム
★★★★

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小ヶ倉ダム

堤高41.2m
G/W 1926年 長崎市営

2010.10.9見学


鹿尾ダムを後に、上流の小ヶ倉ダムへ向かう。
この二つのダムを結ぶ河川は、大きく180度カーブしている為、地図上では二つのダムは並列した並びになっていて、上下流の関係にある様に思えない。

小ヶ倉ダム下流左岸からアプローチ、坂道を登って、天端左岸に到着。
大正末期に建設されたダムなので、天端に自動車を通す事などは考えられていない。
天端に向かう入口は堅く閉ざされていた。

湖周の道路も一車線の狭路で、周囲は緑豊かな山林となっている。
Uターンする場所も少なく、そのまま貯水池左岸を進む。実はこの先に1基ダムがあるはずなのだ。



小ヶ倉ダム本体から500mほど左岸を進むと、うっそうとした木々の中にコンクリートの塊が見えた。

小ヶ倉ダム越流堤である。

1982年の長崎大水害では、小ヶ倉ダム下流の180度カーブの場所が氾濫を起こし、周辺の住宅地に水害を起こしてしまう。
小ヶ倉ダム越流堤は、鹿尾川総合開発事業として鹿尾ダムと共に建設されたもので、既存の小ヶ倉ダムに洪水調節容量を確保し、洪水調節を行なえるものとする設備である。

下の写真、水面は小ヶ倉ダムの貯水池である。



堤高15.3m、堤頂長73.8m
ダム便覧には未掲載であるが、堤高は15mを超えており立派なダムと言える。

ここから放流された小ヶ倉ダムの水は、洪水吐トンネルを通り、直接鹿尾ダムの左岸に送水される仕組みとなっている。



この小ヶ倉ダム越流堤が、鹿尾ダムと兄弟である事が解る正面側の構造。
オリフィスゲートは、鹿尾ダムと共通のシュート式が採用されている。
良く似た兄弟であるが、別の貯水池にあるので異母兄弟といった所か。

クレスト部分のサーチャージ EL 92.3mは、既存の小ヶ倉ダムと同じレベルにあり、オリフィスゲートの越流部が常時満水位となり、EL 90.6m。
その間の1.7mが新しく設けられた洪水調節容量となる。

大正時代に造られた小ヶ倉ダムはオリフィスゲートを持っていないが、この越流堤によって、オリフィスゲートを得た事になる。



越流堤の脇で車をUターンさせ、小ヶ倉ダム本体の下流まで戻ってきた。

小ヶ倉ダムの真下は小ヶ倉水園と言う公園になっている。
遊歩道の先にダムがあるはずだ。



雰囲気のある遊歩道、左手はダム下流の河川が流れる。



程なく、霧にぼんやりと霞む石積ダムが見えてきた。
小ヶ倉ダムである。



大きなアーチ状の副ダムを持っており、その下流にも石を積んだ歩道が造られている。
副ダムから立ち上がる靄が幻想的な雰囲気を作り出していた。



この副ダムも石積で造られている。
滑りやすい足元に注意して慎重に近づくと、副ダムはすぐ目の前だ。



堂々とした小ヶ倉ダム。
堤高さは40mを超えており、石積ダムでは、上田池、河内、等に並び最も高い部類に入る。

石積の利水ダムは堤体に半円形の取水塔を備えるものが多いが、小ヶ倉にはそれが無く、クレストは非常にすっきりとして、小さな洪水吐と共に、品の良さを醸し出している。



美しく整えられた公園から。
朝の小ヶ倉水園には、犬の散歩の方がみえた。



ぐっと、堤体に近寄ってみる。

布積みで整然と築かれた下流面が美しい。
切石一つ一つも整っていて、ピンと張り詰めたような緊張感が漂う。
赤茶けた副ダムとは対照的に、グレートーンの色合いがクールだ。



石積ダムらしい開口部の狭い洪水吐。
越流面に滑らかに繋がる扶壁が素晴しい。
直線的な装飾で、少し控えめな印象であるが、丁寧で確かな造りである事が伺える。

小ヶ倉ダムは品格に溢れた名堤の一つである事には間違いない。



美しい小ヶ倉ダム。

長崎市には、日本ダム史に名を刻む本河内底部や西山ダムなどがあり、少し印象の薄い小ヶ倉ダムであるが、霧雨の中の石積の表情はしっとりとして、独特の落ち着いた佇まいを魅せていた。



小ヶ倉ダム
★★★★

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鹿尾ダム

堤高34.6m
G/FNW 1987年 長崎県営

2010.10.9見学


長崎県 野母半島南端 権現山展望台。
午前6時。
一時間以上も待たされて、ようやく空が明るくなりはじめた。遅い夜明けは厚い雲の性もあるだろう。
暖かい南風、海原から雨を降らせながら雨雲が近づいて来るのか見える。



三菱端島炭鉱 通称軍艦島

僕がダムにのめり込むきっかけとなった聖地である。
(軍艦島の事を調べていて、偶然、萩原さんの写真集に出会ったのがきっかけ)
遠慮なく岸壁に波が打ちつけられ、白く砕けるのがここからでもよく見える。

軌跡を残し、素知らぬ顔で小型の漁船が出港していく。



昔見たACのコマーシャルは、子供ながらにインパクトがあったので今でも良く覚えている。

展望台から海岸沿いの国道に戻り、再び端島を眺める。

国道でバスを待つ人、通勤の軽自動車、犬の散歩。
そこにはごく普通の朝があり、人々の日常があった。

思えば当たり前なのだが、海を隔て非日常的な軍艦島とのコントラストが新鮮に思った。
今迄何千回と繰り返して来た、ありふれた朝なのだ。



軍艦島の見える野母岬から長崎市内にかけては、高浜ダム、黒浜ダム、落矢ダムなど、幾つものダムが連なっている。
国道からも見える落矢ダムは、堤体の真下に長崎ちゃんぽんの「リンガーハット」があり、なかなか長崎らしいダムだと思ったが、今日は先を急ぐ為、これらのダムの見学はまたの機会とした。

やって来たのは市街地も程近い鹿尾ダム。
カーナビの案内に従い、ダム湖の上流からアプローチする。
(下流からでも向かう事が可能だが、かなり解りづらい)

一見するとクレストに越流式の洪水吐を持った、ごく普通のダムに見える。



だが、近づくにつれ、鹿尾ダムが普通のコンクリートダムでは無い事に気付く。

正面に堤体と離れて一枚の壁が設けられている。
これは、特徴的なシュート式のオリフイスゲートの越流部である。



ダムサイトの案内看板より。
常時満水位EL31.2mに対して、サーチャージ水位が33.5m
その差はわずか2.3mしかなく、この事がこの特徴的なシュート式オリフィスゲートの採用理由だと推測。

基礎地盤まで深く地面を掘り込んで築堤されているのも面白い。
オリフィスゲートの吐口が減勢池の水面辺りにあり、クレスト放流も深い減勢池で充分に減勢が出来るのか、減勢池の底はコンクリートが打たれていないようだ。



とても不思議なゲートであるが、形状的には、宮ヶ瀬ダムや比奈知ダムの天端側水路のオリフィス版とも考えれるかもしれない。



複雑な導流壁がカッコいい下流側。
クレストの越流部も薄く、シャープな表情を見せる。



オリフィスの吐口には大きなデフレクター。
この鹿尾ダムの上流に、1926年竣工の小ヶ倉ダムがある。



鹿尾ダム
★★★

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