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ダムA (仮名)

堤高 15m以上
G/利水 民間企業所有


ダムを管理する事業者を分類すると、大きく分けて3つに分けられます。
まずは国や地方自治体、それに水資源機構などの、公共事業によるダム。
二つ目に電力会社が管理するダム、全国10社の電力会社や電源開発のダムなど。

そして3つ目が、民間企業が所有する社用ダムです。
金属の精錬や電気化学工場で使用する電力供給であったり、工場で使用する工業用水を補給する目的で、民間企業が事業主となって、所有、管理しているダムです。

企業所有のダムは、それ自体が企業の施設や私有地などの所有物であり、ダムの管理はその企業活動の一環として行われている事業なので、見学には特に注意する必要があります。
さらには外来魚の密放流や、一部の心無い釣人によるトラブル、さらにはゴミの不法投棄など、ダム管理上の問題は多く、それらに費やす費用は企業活動上の障害であり、関係のない者は出来れば訪れてほしくないと言うのが、ダム管理者にとって正直な所なのではないかと察します。

(勿論、企業所有のダムであっても文化財としての価値や、観光資源として積極的に開放したり、花見シーズンなど期間を決めて公開されているダムもあります。
また、ダムが幹線国道脇にあるなど、部外者と遮断とするのが物理的に無理なダムもあり、状況はさまざまです。)

前置きが長くなりましたが、今回取上げるダムはそういった企業が所有するダムのひとつです。
堤高は15mを超えている現役のダムでありながら、日本ダム協会のダム便覧にも載っておらず、ネット上にもほとんど情報が無い事から一般には全く知られていないとても珍しい物件です。

今回のレポートは特別編として、ダム名、所在地、その他具体的な情報は全て伏せる事にしました。
このダムについて、ネットで詳細を公表する事による影響が予測できないと思ったのが主な理由です。
いつもダムファン(特に初心者の方々)のダム訪問ガイドのつもりでブログを書いてますが、今回だけはご了承頂きたいと思います、ごめんなさい。


さて、本題のダムですが、上記の通り、某民間企業の所有する、利水専用のコンクリートダムです。

某年某月、場所は日本の何処か・・・。

その堤体を一目見た時、雷に撃たれたような衝撃が僕の体中を駆け巡り、湧き上がるように一気に鳥肌が立ったのを覚えました。

洪水吐などの放流設備を持たず、只々巨大なマスコンクリートの塊。
その下流面は全面が水墨画の黒雲を思わせる重厚な表情に覆われていて、見上げる僕を圧倒しました。
そこには、どこか異様とも感じさせる不思議な世界が広がっていたのです。

IMGP9941.JPG

その訳は、ただ単純に古いコンクリートだからと言う事だけではありませんでした。

のっぺりとした下流面の形状。
そう、このダムにはコンクリート打設の継目という物が一切無いのです。
横継目はおろか、水平に痕跡を残す打継目すらありません。
それは今まで訪れたどのダムともまるで異なり、文献の中でも見た事も、聞いた事すらなく、全くの未知の姿なのです。

表面は平坦ではなく不規則に大きく波打っており、下流面全てが法面に塗布するような吹き付けコンクリートで覆われていると言う事以外、全てが謎に包まれています。

いったいこのコンクリートダムが、どのように建設され、そしてどのような経緯を経て、現在の姿になったのだろうか?。
その不思議な外観と、そこに秘められているであろう史実への興味が湧き上がります。

IMGP9944.JPG

しばらくダム真下で茫然とした後、少し移動します。

堤体を斜めから観ると、その独特の形状もより良く判ります。
全体を黒雲に見せていた染み模様に見とれてしまっていた事もあり、ここで改めて堤体の全体像を冷静に観察する事が出来ました。

ダム便覧に未掲載であるものの、堤高は軽く15mは越え、目測ながら20m強と言った所ではないかと思います。

天端から始まる下流面の傾斜はきつく、天端からほぼ垂直から始まり、ゆるやかなバケットカーブを経てやはりきつめの下流面勾配へと繋がります。
堤体の断面形状や、独特の存在感から発散される雰囲気は、僕が好きで観慣れている石張堰堤に限りなく近い姿をしています。

帰宅後、このダムを所有する企業の社史から竣工年を知る事が出来ましたが、堤体のシルエットや、非常用洪水吐が横越流式である事、さらに取水塔の真下に底樋を持つ事等の特徴から、ダムの完成年代は推測して頂きたいと思います。

IMGP9957.JPG

左岸に登って来ました。
堤体は既に日陰になっていましたが、夕暮の斜陽に湖面が輝いていました。

コンクリート打ちっ放しの天端通路が、ダム全体の塊感を助長させます。
まさにコンクリートの塊といった姿です。

写真を撮影している場所は全て自由に立ち入る事が出来ますが、当然ながら天端は堅く閉ざされています。
ここで偶然、地元の方に話を伺う事が出来ました。

以前は貯水池を囲うように遊歩道もあり、天端も歩道として開放されていたそうです。
当時は立派な鯉等を釣る事も出来たのですが、外来種の密放流後はマナーの悪化が深刻となり、結果として現在のように閉鎖されてしまったのだそうです。

IMGP9959.JPG

コンクリート打ちっ放しの通路。
細い鋼管の手摺。
これ以上、省く物の無い、極めて簡素な天端。

天端に雨水の排水溝さえも無く、天端に降った雨水が吹付けコンクリートの波打った下流面に直接流れ出す事で、あの得も言われぬ黒雲模様を生み出していると言う事が解りました。

そして気になるのは、堤体全体から感じる石張堰堤によく似た雰囲気(オーラ)。
下流面の勾配、それに本体非越流とし、貯水池から横越流としている非常用洪水吐など、石張堰堤のスタンダードとも言えるレイアウトを持っている点です。(川筋や地形から横越流とする根拠が見当たらない)

ここで石張堰堤ファンの僕が推測をするならば、当初、このダムは石張堰堤として築堤されたものの、後の改修により表面の石の上から、もしくは石を斫り撤去した後、吹付けコンクリートを塗布したのではないかと言う、大胆な推測をしてみたいと思います。

但し、先程、話を伺った地元の方(年頃は私と同じ40歳前後)によると「ずっと昔からこの姿だった」との事でした。

IMGP9970.JPG

石張堰堤の上をコンクリートで覆ってしまう事例は、少ないながらも実在すると僕は考えていて、他のダム物件でも現在調査を進めています。
しかし、このダムがそれに該当するかは、この時点では何とも言えません。
また、上流面は通常の型枠整形と見られたので残念ながらその可能性は低いと思われます。

それでは、あくまで素人の空想ですが、もう少しだけ現実的な推測をしてみたいと思います。

このダムを所有する企業は、自社グループ内に独自の工事部門を持っていそうな大企業である事を踏まえると、設計から施工まで、全て自社の手によってダム建設が行われたのではないかと推測します。

そこにダムファンとしてのロマンを添加するなら、築堤方法は当時既に主流であった型枠整形としたが、手本として参考にしたダムが古くからの石張ダムであった為、洪水吐のレイアウトや、堤体のシルエットが石張ダムに酷似してしまったのではないか?、そんな空想が浮かびます。

さらに、その後の改修工事も全て自社にて施工した結果、日本の何処のダムとも異なり、どのコンサルタントやゼネコンとも関連を持たない、現在の独自の姿になったのではないだろうか?(言うなればコンクリートダムのガラパゴス化現象)

吹付けコンクリートの波打った表面は、部分的に補修を繰り返した結果、表面の吹付け層の厚みに変化が付いたのではと思われます。

勿論、これらの推測は空想に近いもので事実とは多分に異なるとは思うのですが、そんな事も想像したくなる、謎めいた魅力に溢れるダムである事だけは、疑う余地のない事実と言えます。

IMGP0015.JPG

このダムは、日本の何処かに実在する現役のダムですが、今回のレポは中途半端な情報で、ダム巡りのプランとして役立てる事が出来ずごめんなさい。
ですが、ダムに興味を持ち、全国のダムを調べて行けば、必ず行き当たると思います。

日本全国にはいろいろなキャラクターのダムがありますが、詳細不明のこんな物件があっても面白いな、なんて思って頂けると幸いです。

Aダム(仮名)
★★★★


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刻まれた追憶のバットレス。


藪の中にコンクリートのカケラでもあればいいな・・・そう思っていた。

 
バットレスダム。
1923年から1937年にかけて、たった14年間の間に、わずが8基のみ建設された貴重な形式のダムは、現在6基が現存している。
消えてしまった2基のうち、新潟の高野山ダムは再開発により完全に消失。

そしてもう一つが、長野県小諸市にあった旧小諸発電所第一調整池、小諸ダムである。
 
1928年8月29日、午後4時8分。
突如として堤体左岸近くの下流側に地盤沈下が発生。バットレスダムの左岸側が崩壊し、貯水の流出により下流の住民7名が死傷する惨事となる。
当時の事業者であった東信電気は、この小諸第一調整池を放棄。従来からの千曲川の取水口の付近に、新しく代わりの調整池を設け現在に至る。
小諸発電所は、戦時中の日本発送電を経て、現在は東京電力が事業を引き継いでいる。

現在も小諸発電所に送水をしている第二調整池は、第一調整池である小諸ダムと同時期に築堤された双子ダムであり、かつて小諸ダムがあったとされ、現在は小諸市の管理する南城公園のすぐ隣に現役である。
 

南城公園
広い第一駐車場。
小諸バットレスは事故後、埋め立てられ、跡地がこの公園なのだと聞く。
まさにこの場所がかつて小諸ダムがあった場所なのだろうか。


 
芝生広場と遊具。
南城公園は、野球場やプール、マレットゴルフなど、総合運動公園として小諸市民に愛されている。日曜のお昼とあって、家族連れでにぎわう。
遊具のある月山のすぐ裏に第二調整池がある。
 
子供たちの声と、和やかな雰囲気が漂うこの場所に、かつてのダムを示すものは何も存在しない。周辺の木々の生育状況から当時の貯水池の輪郭が解るのでは、その時はそう考えていた。


 
だが、ここである違和感を覚える。
この駐車場や芝生広場は、隣接する双子ダムである第二調整池と比べ、明らかに標高が高い。
推測される二つのダムの距離はとても近く、堤体はほぼ横並びに200mも離れていないはず。それなのに、この場所は第二調整池よりも10〜15mは高い位置にあるのだ。水路で結ばれた双子ダムの水面はほぼ同じと考えるのが普通である。
 
つまり、小諸ダムの跡地はこの場所では無い。

駐車場脇の林の向こう、随分と下に野球場が見える。南城公園の敷地は上下二段になっていて、下段に野球場とプールなどがある。
 
駐車場脇の遊歩道から野球場方面へ降りてゆく。



木漏れ日の中を歩くと直ぐに視界が開けた、目の前には公園の管理事務所。
どうって事のない公園の風景。

まさか自分の視野に突如飛び込んで来た物に、度肝を抜かれる事になろうとは。


 
荒い肌は明らかに長い歳月を物語る。

突き出した一対の壁は、端の丸みから明らかに水に関わる遺構である事が伺える。
この構造物は、小諸ダムの右岸にあった排砂ゲートと見て間違いない。

だが、本当の衝撃はこの構造物の左、下流側の場所にあったのだ。
 
絶句。頭の中では驚きと歓声が沸きあがっているのに、まるで声が出ない。


コンクリートの護岸に傾斜した防水壁の名残・・・。



それは重力式でも、アーチ式でも無い。
防水壁を扶壁で支えるバットレスダムの証である。
 
コンクリートの壁から突き出した鉄筋。
砕けたままの傷跡、そこに根を降ろした草木。
 
竣工後、僅か数ヵ月での崩壊事故、そして放棄。
80年の時を越え、博物館の化石の恐竜ように・・・

「それ」 はコンクリートの壁面に刻まれていた。

 
埋め立てられていると聞いていた小諸バットレス、実際には埋め立てされてはいなかった。実際には堤体を撤去したのみで、水の抜けた貯水池の中に公園が整備されていたのである。

それが解るかつての右岸だった壁。
調整池であった小諸ダムは、全周にわたりコンクリートで護岸されていたと思われる。今、自分が立っている場所は、かつての池の底なのである。
 


今迄見て来たバットレスダムは、富山の真川調整池や鳥取の三滝ダムなど、物資の輸送が困難な僻地ばかりだ。堤体積が少ないバットレスダムが採用されるには相応の理由があるのだ。
だが小諸ダムの場合はどうだろう、小諸市の市街地の外れにあり、当時の周辺は桑畑に囲まれてはいたが、築堤資材の輸送には問題は無い立地である。

ヒントこの火山性の脆い地質にある。
浅間山麓のこの地にあって、重力式に比べ圧倒的に軽く、柔らかい地盤の上に築堤できるダム形式としてバットレスが採用されたのではないだろうか。
結果的にはその脆い地質の地盤沈下により命取りとなってしまった。

崩壊した小諸ダムの跡地に整備された南城公園。問題のある地盤上を宅地にする訳にも行かず、野球場やプール等にしたのかもしれない。

当時の様子を想像しつつ周辺を散策すると、プールの脇にまたもや驚きの構造物を発見する。

マレットゴルフのコース内に横たわるコンクリートの構造物。
それは、千曲川上流の取水口からの送水管であった。



左岸から突き出して、池の中心あたりで地中を潜り、隣の第二調整池まで通じている。
そう、この送水管は小諸ダム建設時に造られ、そして今も現役の設備なのである
 
当時はこの送水管の上部だけ水面から覘いていたのだろう。
現在は第二調整池への水路であるが、当時は小諸ダムへの注水、さらには小諸ダムから第二への送水を担っていたのではと推測される。



次に南城公園の北に隣接する小諸発電所第二調整池に向かう。

堤高が15mに満たない為だろう、ネット上でも写真などの資料がほとんど無く、コンクリートダムである事は衛星写真から確認していたが、詳細は謎の物件である。
 
河川法のダムでは無い為、知られていないだけで実はバットレスダムなのではないか?
バットレスダムだったが、小諸ダムの事故を受け、扶壁内にコンクリートを充填し重力式としているのでは?
何れにせよ小諸ダムと同時期に建設された堰堤は、魅力的なものには間違いないだろう。

ダムに興味を持って以来、個人的に2年以上も妄想を膨らませていた堰堤である。
 
周囲をコンクリートで護岸された貯水池。その奥に堤体が見えて来た。
木造の建物は管理所ではなく、発電所への取水設備の建物であった。竣工当初からのものだろうか。


 
小諸発電所第二調整池堰堤。

ダム形式こそスタンダードな重力式コンクリートダムであったが、何よりもクレストの造形が注目に値する。
 両岸までずらりと並ぶ扶壁状のデザイン、中心の越流部は洪水吐の機能をもっているが、非越流部の扶壁には機能や役目は無く、隣接する小諸バットレスとの外観上の調和を意識したものであろう。
竣工当時は、下流からは二つの堤体が並んで見る事が出来たと思われるのだ。

意外な所で発見した小諸バットレスの残り香であった。



 
旧小諸発電所第一調整池 小諸バットレスダム。

跡地の地形や残された遺構、コンクリートの護岸から想像すると、ダム本体の堤頂長はおよそ70〜80m、堤高は10mにも満たない低い堰堤であったと思われる。
現在の河川法ではダムではなく堰堤に区分されるものだったと僕は推測している。
 
地盤の問題からか跡地が市営の公園に利用され、宅地などに造成されなかった事、双子ダムであった第二調整池が現役である事。
いくつかの偶然により、82年前もの昔に放棄された遺構が残るのは奇跡と言えよう。



(2010.6.13 調査、及び2010.6.26 再調査。 写真は両日が混在
この記事は、あつだむ宣言!が現地で感じた個人的推測であり、事実と異なる場合があります)

2010.10.26 追記
小諸バットレスのサイズは、堤高16m、堤頂長100m弱 で、あるとの事でした。

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福沢桃介は、日本最初のダムマニアなのだ。

先日、木曽川は南木曽町にある、国指定重要文化財の「桃介橋」に行ってきました。

橋のたもとにある、電力王 福沢桃介についての展示施設「福沢桃介記念館」も、ついでに見学したのですが、これがとても興味をそそる、面白い所だったので少し紹介します。

福沢桃介が木曽川の電源開発に乗り出した時に建てた別荘で、大正8年に建てられました、大正13年に大井ダムが完成するまで、福沢桃介はこの別荘から建設現場まで通っていました。

2階部分は昭和35年に火災により焼失しましたが、平成9年に焼失部分が復元されています。もちろん、火災を免れた1階部分は大正8年の当時のままです。



入館料は300円、これは隣接する「山の資料館」の入館料が含まれています。

館内は、ガイドの方が付き添って、丁寧に説明して頂けます。
福沢桃介の生い立ちから、川上貞奴との出会い、この別荘での暮し・・・・。
結局、1時間半に渡りいろいろとお話して頂きました。
数々のエピソードに、映画1本丸々観たような感覚でしたが、これで300円とはなんともデフレスパイラル。
詳しい内容は是非実際に訪れて伺ってみて下さい。とてもお勧めです。

これはエントランス部分。
別荘なので贅を尽くした感じではなく、落ち着いた雰囲気。

NHK大河ドラマ「春の波涛」では、実際にこの建物内でロケが行なわれたそうです。



1階の廊下。
突き当たりが桃介の書斎。1階は全て洋室ですが、書斎は茶室を思わせる小部屋で畳敷きでした。
置かれてある桃介橋を描いた当時の油絵には当然ながら国道19号は描かれていません。

この部屋で、福沢桃介は木曽川の電源開発の夢を膨らませたのかもしれませんね。



各部屋には、福沢桃介や川上貞奴に関する展示の他に、読書発電所建設の写真や、大同電力の貴重な資料など、ダムマニア垂涎の展示が数多くあります。



福沢桃介に関する建物としては、この別荘の他に、本宅「二葉館」が名古屋市内で公開されています。

ガイドさんによれば、二葉館は、全ての部屋にそれぞれ違った意匠が施されており、
「それは、桃介が手掛けた多くの発電所のデザインが、一つとして同じ物が無い様に、各部屋が違った意匠が施されている」 のだそうだ。

これは、ダム愛好家として、思わずニヤリとしてしまうエピソード。

これは、この福沢桃介記念館のすぐ下流にある読書発電所。
国指定重要文化財の指定を受けています。



建設当時、ニューヨークでも最先端だったアールデコの影響が伺える、ゴッドファーザー大井ダム。



笠置ダム。
丸山ダムと大井ダム。二つのビッグネームに挟まれ、いまひとつ影の薄い笠置ダムですが、戦前のダムの中では間違いなく最も美しいダムのひとつ。

福沢桃介の美観へのこだわりは、単に構造物の表面に装飾を施したのではなく、装飾そのものに機能を組み込むに至る。



ここである事に気が付く。

電力王 福沢桃介は、自身が手掛けるコンクリートダムに対して、単なる「発電施設以上の価値」を見出して、それを追求していたのではないか。

つまり、福沢桃介は、我々と同じ「ダムマニア」だったのではないかと!!。

そう、福沢桃介は、日本最初のダムマニアなのである。
但し、既存のダムを巡り鑑賞する我々と、「作っちゃう」桃介氏とではマニアの次元が違いますけど。


さらに、それを裏付けるかのようなモノを記念館の外壁で発見。

記念館の一階部分。ここは大正8年の建設当時のままの場所。
コンクリートの柱の仕上げに注目。
なんと、洗い出しによってあえて骨材を露出させた意匠が施されている!。(見えない柱の裏側は、通常の打ちっ放しコンクリート面)

大正8年。コンクリートが住宅の建材として広く一般に使われるのはまだまだ先の時代。
既に福沢桃介は、コンクリートを美しく見せるテクニックを研究し、モノにしていたのだ。



福沢桃介は、初のダムマニアにして、さらに日本初のコンクリートマニアなのか!。



お問合せ
福沢桃介記念館・山の歴史館 TEL (0264)57-4166

「そうなのーっ」 とか、いきなり問合せないように(笑)

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奥津発電所調整池 懸崖水槽

所在地 岡山県苫田郡鏡野町奥津川西

2010.1.9見学

「空中水槽」


苫田ダムの上流、奥津温泉の近くにとても貴重な発電用の調整池があるという。

その調整池は、温泉街を見下ろす山腹のキャンプ場、星の里キャンプビレッジから、さらに林道を300mほど進んだ所にあるのだそうだ。
通常、目的の調整池まで車で行けるのだが、この日はキャンプ場からの林道は雪で閉ざされ、徒歩で向かう事となった。
キャンプビレッシは冬は休業している様だが、管理人の方が居られたので、キャンプ場の駐車場を借りる事が出来た。調整池の事を伺ってみたが、その様なものは知らないと言う。少し不安になる。

林道は一面の雪。
車どころか人の足跡ひとつない雪面。
雪の深さは膝丈程度なのだが、足を踏み出すごとに、表面がバリッと割れ、一歩一歩足を取られ、実に歩き辛い。
蹴散らせるほど柔らかくもなく、上を人が歩けるほど堅くもない最悪の雪面である。

見上げると山の上にコンクリートの構造物が見える。



コンクリートのバットレス。間違い無い、懸崖水槽だ!



心は逸るが、足はもつれるばかり。
おまけに乾いた冬の空気が遠慮なく喉をカラカラにさせる。

息も荒く、だいぶ近くまで登って来た。
残念ながらバットレスの周辺は厳重なフェンスにより立入禁止。



扶壁に登録有形文化財のプレートを発見。
完成は1933年、とても歴史のある調整池は、各地でバットレスダムが造られた1923年から1929年の期間から少しだけ時期を置いて完成している。

この調整池から水圧鉄管が伸び、ふもとの中国電力 奥津発電所で発電が行われている。



この調整池の場所には、元々そこに流れていた谷川は無く、水は全て遠くで取水されたものである。
北西に山を二つ越えた羽出川と曲谷川の合流点から取水された水、それに、およそ10キロほど離れたバットレス恩原ダムから送られる水である。



調整池の全体を眺望できる位置まで来て驚く。
なんと冬の調整池は水が無く、コンクリートの底が露になっていたのだ。

広さは、幅およそ50m、奥行きは180m程度だろうか。
同じように底がコンクリートで貼られている北陸電力 真川調整池より少し狭い程度。
銀色に輝く池の底は、実際よりも広く見える。

写真右手の斜面がバットレス構造の遮水板。池の深さはそれほどでも無く、10mに満たないように感じる。



山側から丸くせり出した部分は余水吐だろう。
一般的なダムの余水吐と違い、洗面台のシンクのあふれ防止穴のようで面白い。

奥に見える建物の辺りに、水圧鉄管への入口があるはずだ。
恩原ダムから送られて来た水も、こちら岸に出口があると思うのだが良く解らなかった。



調整池の周囲にそって、池の1/3程度散策する事が出来る。
振り返ると雪面には自分の足跡だけ。

右手の建物は送られて来た水の落差を利用した発電施設。
位置的に羽出川・曲谷川方面からの水ではないかと思うのだが、詳細は不明。



調整池の奥の方まで行くと、不思議な形の流れ込みがある。
先ほどの発電所から微妙な距離感なので、発電後の水の出口か、それとも、別の流入なのだろうか。いずれにしろ、調整池に水が貯えられると完全に没してしまう部分である。

調整池の周囲はぐるりと全周に渡りコンクリートが貼られ、池の底もコンクリートなのだから、文字通りの水槽であるようだ。



この奥津発電所調整池は、日本ダム協会のダム便覧には載っていない。

河川を堰き止めている事がダムの定義のひとつであるが、この調整池のように元々何もなかった土地に作られた貯水池では、青森の一の渡ダムなど便覧に記載されている例もあるので、ネックとなるのはやはり堤高が15mに満たない事なのかもしれない。



さらには、この懸崖水槽の構造があまりに特殊である事も挙げられるだろう。

懸崖水槽の懸崖とは、所在地の地名ではなく 「懸崖造り」 と言って、崖などの斜面に柱を立て建物を築く建築方法の事である。
山奥の寺院などに見られる懸崖造りは、有名どころでは京都 清水寺の舞台などかある。

その懸崖造りの調整池。外観からは3階建のビルのようなバットレスがそびえる、高い所で地面より14mほどある。
実はコンクリートの調整池の底は、無数のラーメン構造のコンクリート柱によって地面から浮いた状態で支えられている。

これが懸崖水槽と呼ばれる由縁なのである。

驚愕なのは、さらに地下に16mほど、貯水池を支える無数の柱が埋没していると言う事だ。
埋め立てられた土砂を取り除くと、高い所で30mに及ぶ高さの扶壁や柱の上に、広さ50m×180m、深さ数メートルの貯水池が、空中に高々と持ち上げられているのである。



奥津発電所調整池 懸崖水槽。

貴重なバットレス構造の調整池を、さらに懸崖造りで築き上げた。
奇跡のような建造物が、だれも来ない雪の中でじっと春を待つ。


special thanks  「雀の社会科見学帖」 夜雀 様
現地で情報ご提供頂き、ありがとうございました。

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牛伏川フランス式階段工

「日本で最も美しい砂防堰堤」

所在地 長野県松本市内田
2010.2.2見学

松本市にとても美しい砂防堰堤があるのだと言う。
大正時代、フランスのサニエル渓谷の階段状の砂防工事を手本として築き上げられた、階段状の砂防堰堤群である。

そのフランス式階段工へは、まず厄除けの祈祷で有名な金峯山牛伏寺(ごふくじ)を目指す。住宅地を抜け、山中に入ると巨大な砂防堰堤が姿を現す。牛伏寺砂防堰堤である。



砂防堰堤を見下ろす場所に、牛伏寺の駐車場があるので車を停めさせて頂いた。
通常、目的の階段工まで車で行けるのだが、山道は一面の新雪。それに、歩いて探訪するのも悪くないと思った。

歩き始めると直ぐに道は二手に分かれる、目指すフランス式階段工には右手の砂防堰堤の湖畔の方向だ。



国土交通省の土木遺産リストにも挙げられ、登録有形文化財の指定を受けた牛伏川フランス式階段工は散策路が整備され、上流にキャンプ場が出来るなど、学べる野外レジャー施設として整備されている。

牛伏寺砂防堰堤上流からの眺望。
遠くには松本の市街、さらに天候次第では北アルプスの山々を望む事が出来るのだとか。



牛伏川沿いの道を歩くと、さらにいくつもの砂防設備が見えてくる。
これは牛伏寺ダム上流砂防堰堤。比較的新しいもので、昭和53年の完成。



この牛伏川は、上流が脆く崩れ易い地質であった為、かつては絶えず氾濫を起こし、元禄年間から明治にかけての200年間は、10年に一度の割合に大洪水を引き起こしていたのだという。
その為、江戸時代から上流の沢には砂防工事が施されたが山肌の崩落を止めるには至らず、明治の初めには、上流の山肌は一面はげ山と化した。

その荒廃した牛伏川に転機が訪れる。
明治10年、国による信濃川改修工事に際して、信濃川の土砂の堆積の要因として、この牛伏川の氾濫が挙げられる。
明治18年、政府の手により牛伏川の砂防工事が開始、その後も国の補助を受け工事は県に引き継がれれ、牛伏川上流には100基以上の石積み堰堤、護岸や植林などが施される。

その結果、土砂の流出が抑えられつつあったが、今度は土砂の流出が減った事により河床が低下しはじめる。
特に幾つのの沢が合流し、牛伏川の本流が始まる地点では他より勾配も急であった事から、深刻な事態となる。それが今回の目的地、後に牛伏川フランス式階段工が築かれる場所であった。



牛伏川ダム上流砂防堰堤から上流は、河床に石が敷き詰められ、ゆったりと沢の水が流れて来る。
ここはまだフランス式階段工ではない。
さらに上流へ向かって歩くと、道はついに完全に雪で覆われ、新雪の上を歩く。

これが、日本で最も美しい砂防堰堤と呼ばれる、牛伏川フランス式階段工である。



全長140m、落差50mの中に、19段もの段差が設けられている。
格段の高さはおよそ80センチ前後。最下流の1段のみ高く3mの高さがある。
また、その格段の中にも複数の小段をもつものもあり、バラエティに富んだ水の表情は観ていて飽きる事がない。

積まれる一つ一つの石は、自然のままの野面石。
流れ落ちる水流も角の取れた滑らかな表情で、コロコロと空気を包み、転がり流れる水音に心が和む。

階段工の脇には、雪に閉ざされた車道の他に、林の中に歩道が作られている。
一歩一歩雪を踏みしめながら美しい階段工を散策する。



階段工の最上流は第一号石堰堤と呼ばれ、明治19年に内務省によって築かれた。
そこから下に伸びるフランス式階段工は、長野県により大正7年に完成。
これにより、30年にも渡る牛伏川の砂防事業は終了する。



この第一号石堰堤の上流も石貼りの河床は上流に向かって続に、さらに上流には明治に築かれた多くの石積み堰堤を観る事が出来る。

第一号堰堤の上の建物はキャンプ場の炊事場。夏には、はだしの子供達が牛伏川で遊ぶ姿が観られるのだろう。

牛伏川に入り、第一号石堰堤の上からフランス式階段工を見下ろす。
こうして上から眺めると、自然のありのままの優しい流れに見える。



雪が消え、林の木々が芽吹く頃になると、フランス式階段工の周囲も葉が茂り、階段工は姿を隠してしまうらしく、観るなら冬が良いそうだ。

今回は新雪が積もり、きっと姿を隠してしまうだろう上流の石積み堰堤は、次のシーズンの楽しみとした。雪が無ければ、キャンプ場まで車で来れるだろう。




牛伏川フランス式階段工
100年前、一面はげ山だった谷には見事に緑が戻り、暴れた谷川は人の手により、優しい流れに姿を変えた。


<参考文献>
「とっておきの風景 水辺の土木」 伊藤孝 他著 INAX出版

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